説明
近年、世界経済のグローバル化の進行に伴い、国内においては生産現場の環境や農業施策は大きく変化しつつある。我が国の食料自給率の向上や食の安全確保、環境保全型農業の展開に向け、これらの変化に柔軟に対応した取り組みが急務である。特に、増大する一方の輸入農作物とともに流入する病害虫を取り締まる検疫強化に向け、より一層の力を注ぐ必要があるとともに、国内の食糧生産増強に障害となる病害虫の防除体制の強化・充実が迫られている。従って、それにたずさわる専門家の人材育成は急務である。
従来は、植物に発生する病害・虫害・生理障害・雑草害(以下これらを総称して「植物病」と呼ぶ)の原因・発生生態・防除技術に関する知識を大学で学んだ者が、専門家から現場を踏まえた知識と技術を学びプロへと育成されてきた。
近年、大学のこれらの分野には分子生物学的手法など先端的技術が導入され、ゲノム情報も駆使し、室内(ラボ)・試験管内(イン・ビトロ)実験が主流を占めるようになった。
この傾向は何も日本に限ったことではなく、米国でも問題となっている。
国際的に著名な英文教科書「植物病理学」の著者アグリオスが「植物健康増進」という英文誌に投稿した論文で、米国においても学問の専門化、細分化が進行し、分子生物学は知っていても現場を知らず、植物病の発生する圃場を前にして立ちつくす学生が増え、植物病を理解する人材が少なくなったことを憂えている。
このような事態を打開するには、「植物病理学・害虫学・線虫学・農薬学・植物生理病学・雑草学」など植物病に関わるあらゆる分野の知を構造化し、植物病の「診断・治療・防除・予防」(以下これを「臨床」と呼ぶ)を扱う「植物医科学」分野を創成し、現代ニーズに応える教育を立ち上げ、植物医師を育成するとともに、植物病院ネットワークを構築する必要がある。
食糧の需給バランス等に対する懸念を前に、国内の食糧生産確保は切迫した問題となっている。また、地球環境問題がクローズアップされるなか、都市や屋上の緑化に注目が集まっている。ストレスに満ちた現代社会を反映し、ヒーリングプランツや園芸療法の効果にも期待が高まっている。これらの状況は、植物の効用や用途が多様化し、それにともない植物病の臨床に対する需要も多様化・複雑化しつつあることを示している。これらに対処するには、「植物医科学」の教育研究を推進し、大学や試験研究機関で行われている教育研究に基づく「知」と、現場で必要とされる臨床システムに必要な「知」の乖離を埋めることが期待される。既存の「知」の構造化と臨床システム構築をミッションとする横断融合的教育研究分野が「植物医科学」である。
従来の伝統的な技法に加え、分子生物学的手法や先端的機器分析手法などを活用し、臨床システムをサポートする技術の統合化・体系化に取り組むと共に、新たな技術開発を行う。
その成果を基に臨床システムに取り組む現場の拠点をつなぐネットワーク構築を目指す。また、種苗産業や一般農家・植物産業・庭園や公園・家庭菜園などで栽培される植物に発生する植物病に対応する臨床技術の専門家やその指導者を養成するだけでなく、すでに現場で活躍する専門家のスキルアップ(再教育)も重要なミッションの一つとなる。植物病の発生源は家庭菜園や市民農園であることが多い。一般市民に対する啓発活動を通じ、植物生産に必ずついて回る植物病発生リスクの重要性に関する認識を高め、植物病の発生や蔓延の抑止につなげる必要がある。
植物病理学を例に挙げれば、「枯れ草病理学」から「寒天病理学」を経て、今日「分子病理学」へと変貌してきた。必然的に、フィールドから温室やラボ、そしてイン・ビトロへと研究の場が移り、実験スケールもマクロからミクロへと変遷した。「枯れ草病理学」とは、さく葉標本に基盤を置いたものであり、当時の「植物病データベース」にあたる。しかし今日の「データベース」は、テクノロジーの急速な進展を受けITを活用したものとなる。ウェブ上に専門家がデジタル情報を提供し、双方向でそれを利用・更新してゆくシステムが不可欠となった。国内の微生物病で約12,000種類、害虫病で約5,000種類、生理病で2,000種類以上、雑草害で約900種類あり、1人の専門家でこれだけの植物病を全て把握しているはずもなく、また診断できるはずもない。居ながらにしてデータベースにアクセスできれば、迅速かつ適確な診断・治療・予防・防除が可能となるわけで、このようなエキスパートシステムの構築はぜひとも必要である。
近年の科学技術の急速な進歩により、最先端の分析技術や分子生物学的技法は、植物病の効率的な診断・病因の特定・治療・防除・予防に向けた高度先端臨床技術として、従来の臨床技術とともに強力なツールとなる。現在は散逸した状態にある「病害・虫害・生理障害・雑草害」のそれぞれの伝統的臨床技術を統合化すると共に、高度先端臨床技術とも合わせて体系化することは非常に意義深いことであろう。
高度先端臨床技術の提案は数多くあるが、実用化されるのはごく一部に過ぎない。
これはラボの中で考案される最新技術を用いた成果の多くが、臨床に対応したイノベーション創出にまで至る道筋や環境が整備されていないことも要因のひとつになっている。
ラボと臨床現場との間に双方向の流れを作り、「知」と「技」の摩擦と融合を促進し、出口へとつなげるしくみを構築する必要があろう。これにより、現場における活用を見据えた基礎研究を行う一方、現場からも基礎研究を見据え、ニーズを発信することが可能となろう。植物病の分野でも分子レベルの研究が進み、先進的な防除技術が開発されるなど目覚しい進展が認められる。しかしその一方で、大学教育における圃場実験や実習体制の軽量化も進行している。このため、農業現場における諸現象に関心を示さない学生が急増していることが、日本を含む世界各国の調査で明らかにされ、現場を重視した教育の強化に早急に取り組む必要のあることが指摘されている。
しかし「植物医科学」に関する教科書や参考書は内外を通じてこれまで例がない。このような標準テキストがあれば、大学・国の研究機関・企業などにおいて「植物医科学教育」が実施可能となる。また、園芸愛好家が座右に置いて参考とすることも出来る。本書はこのような発想のもとに企画・編纂されたものである。
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